万葉集巻三の三二四 山部赤人
(1)三諸(みもろ)の 神名備山(かんなびやま)に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生(お)ひたる 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 玉葛(たまかづら)
(2)絶ゆる事なく ありつつも 止まず通よはむ 明日香の 古き京(みやこ)は山高み 河とほしろし 春の日は
(3)山し見がほし 秋の夜は 河し清けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒(さわ)く 見るごとに
(4)音(ね)のみし泣かゆ いにしへ思へば (長歌)
この長歌を、「万葉朗唱」の会員である80才前後の先輩諸兄が歌えるように、旧知の良いメロディーが無いものか?いろいろ試して見ました。
以前万葉集巻1-21(大和には 村山あれど 取りよろふ)を山田耕筰作曲の「この道」のメロディーに当てはめて歌っているので、「二匹目のどじょう」は居ないものか? あったのです。
滝廉太郎作曲の「荒城の月」です。でも歌の最初の「春高楼の」からは当てはまらなくて、これを前奏にして、次の「花の宴」から歌います。
(春高楼の)次から「みーもろの」(花の宴)と続けて「たまかーづら」(今いずこ)で(1)が歌えます。
(2)で(春高楼の)に戻り「たゆることなく」と歌います。そして
(3)でまた(春高楼の)に戻って、「やましみがほし」と歌って(昔の光 今いずこ)を「かはづはさわく みるごとに」と歌うと、
上記の(4)が残るので、「荒城の月」の「昔の光 今いずこ」の箇所へ戻って、(4)の「ねのみしなかゆ いに しへ おもへば」を歌うと、目出度く歌えました。
さて次は フランス語版ですが、
(1)Sur la montagne sainte [聖なる山の上に]
すゅる らもん・たにゅ さんと
qu'habite un dieu [神がすんでいる]
きゃびたん でゅ
etendent leurs cinq cents rameaux [500の小枝を伸ばしている]
え・たーん ルゥるさ[e]ん さ[a]ん らも
pousses drus [茂って(密生した)生えている]
ぷせ どぅりゅー
les pins tsuga [栂・ツガ(松の種類)の木]
れぱ[e]ん つが
de proche en proche [近くから近くへ→そこら一面に]
どぅ ぷろしゃん ぷろーしゅ (de Aa(en)B→AからBへ)
comme liane jolie 「宝石の葛の木のような]
こむ りあんぬ じょりー、
日本語版ではここで(1)の歌詞は終わりなので、(春高楼の)に戻り(2)が始まるが、「荒城の月」のメロディーが4小節が残っているので、(2)の[絶ゆる事無く ありつつも]と次の歌詞のsans lamais〜を続けて歌ってしまう。(2)以後は日本語の歌詞とフランス語歌詞の場所がずれてしまうが、メロディー完唱のために、目をつぶる。
sans jamais avoir de cesse [san cesse 絶えず]
さんじゃめ ざヴぉあーる ドゥ せす
c'est de la sorte que [de sorte que:〜できるように]
せ・どゥら そると(ゥ)・く
以上二行まとめて、 [絶える事無くありつつも]
(2)toujours voudrais revenir
トゥじゅーる ヴどゥれ るヴにーる
a la vieille capitale D'Asuka
あらヴぃえゆ きゃぴたるだすか
car montagnes y sont hautes
かるもんたにゅ・ずぃ そん・とーとぅ
et riviere abondantes
えーりヴぃえーる あーぼんドンとゥ
les jours de printemps
れーじゅる ドゥ ぷらんたん
montagnes je voudrais voir
もんたにゅ じゅヴドレ ヴぉあーる
les nuits d'automne
れ にゅい どートンぬ
riviere sonnent clair
リヴィエール ソンヌ くれーる
(3)Dans les nuages du matin
だん れにゅあーじゅ デュまたん
des grues se croise le vol
でぐりゅー すくろワーず るぼる
dans le brouillard du soir
だんる ぶるいやーる デュそわーる
grenouilles menent grand bruit
ぐるぬいーゆ めのん ぐらんぶりゅい
chaque fois que j'y vais voir
しゃくほぁく じヴェヴォわーる
je ne sais que sangloter
じゅぬせく さんぐろて
au souvenir d'autres temps
おーすヴにーる どートゥるたん
最後に「荒城の月」の(いまいづこ)のメロディーが残ってしまうので、
au souvenir d'autres temps を繰り返して完唱する。
(2)の二行目は 4分音符2個にA la vieille と歌い、次も同じく4分音符2個にcapitale D'Asukaを工夫して入れて歌います。
この長歌(巻三の三二四)の意は次の通り
神の来臨する神なび山にたくさんの枝をさしのべて生い茂っている栂の木、その名のようにいよいよ次々と玉葛のように絶えることなく、ずっとこうしていつもいつも通いたいと思う明日香の古い都は、山が高く川が雄大である。春の日は山を眺めていたい。秋の夜は川の音が澄みきっている。朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に川鹿は鳴き騒いでいる。ああ見るたびに声を出して泣けてくる。栄えたいにしえのことを思うと。
赤人の本意は、自然は往時と変わらず雄大で躍動しているのに、そこに住んだ大宮人たちは露と化して今や存在しないという点にあるらしく、
「見るごとに音のみし泣かゆいにしへ(思へば)」の結びにそれが感じられる。しかし、全体はややあいまいで、近江荒都歌に見える迫力はない。
以上テキストは集英社文庫の(万葉集 訳注2 伊藤博著)
(1)三諸(みもろ)の 神名備山(かんなびやま)に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生(お)ひたる 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 玉葛(たまかづら)
(2)絶ゆる事なく ありつつも 止まず通よはむ 明日香の 古き京(みやこ)は山高み 河とほしろし 春の日は
(3)山し見がほし 秋の夜は 河し清けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒(さわ)く 見るごとに
(4)音(ね)のみし泣かゆ いにしへ思へば (長歌)
この長歌を、「万葉朗唱」の会員である80才前後の先輩諸兄が歌えるように、旧知の良いメロディーが無いものか?いろいろ試して見ました。
以前万葉集巻1-21(大和には 村山あれど 取りよろふ)を山田耕筰作曲の「この道」のメロディーに当てはめて歌っているので、「二匹目のどじょう」は居ないものか? あったのです。
滝廉太郎作曲の「荒城の月」です。でも歌の最初の「春高楼の」からは当てはまらなくて、これを前奏にして、次の「花の宴」から歌います。
(春高楼の)次から「みーもろの」(花の宴)と続けて「たまかーづら」(今いずこ)で(1)が歌えます。
(2)で(春高楼の)に戻り「たゆることなく」と歌います。そして
(3)でまた(春高楼の)に戻って、「やましみがほし」と歌って(昔の光 今いずこ)を「かはづはさわく みるごとに」と歌うと、
上記の(4)が残るので、「荒城の月」の「昔の光 今いずこ」の箇所へ戻って、(4)の「ねのみしなかゆ いに しへ おもへば」を歌うと、目出度く歌えました。
さて次は フランス語版ですが、
(1)Sur la montagne sainte [聖なる山の上に]
すゅる らもん・たにゅ さんと
qu'habite un dieu [神がすんでいる]
きゃびたん でゅ
etendent leurs cinq cents rameaux [500の小枝を伸ばしている]
え・たーん ルゥるさ[e]ん さ[a]ん らも
pousses drus [茂って(密生した)生えている]
ぷせ どぅりゅー
les pins tsuga [栂・ツガ(松の種類)の木]
れぱ[e]ん つが
de proche en proche [近くから近くへ→そこら一面に]
どぅ ぷろしゃん ぷろーしゅ (de Aa(en)B→AからBへ)
comme liane jolie 「宝石の葛の木のような]
こむ りあんぬ じょりー、
日本語版ではここで(1)の歌詞は終わりなので、(春高楼の)に戻り(2)が始まるが、「荒城の月」のメロディーが4小節が残っているので、(2)の[絶ゆる事無く ありつつも]と次の歌詞のsans lamais〜を続けて歌ってしまう。(2)以後は日本語の歌詞とフランス語歌詞の場所がずれてしまうが、メロディー完唱のために、目をつぶる。
sans jamais avoir de cesse [san cesse 絶えず]
さんじゃめ ざヴぉあーる ドゥ せす
c'est de la sorte que [de sorte que:〜できるように]
せ・どゥら そると(ゥ)・く
以上二行まとめて、 [絶える事無くありつつも]
(2)toujours voudrais revenir
トゥじゅーる ヴどゥれ るヴにーる
a la vieille capitale D'Asuka
あらヴぃえゆ きゃぴたるだすか
car montagnes y sont hautes
かるもんたにゅ・ずぃ そん・とーとぅ
et riviere abondantes
えーりヴぃえーる あーぼんドンとゥ
les jours de printemps
れーじゅる ドゥ ぷらんたん
montagnes je voudrais voir
もんたにゅ じゅヴドレ ヴぉあーる
les nuits d'automne
れ にゅい どートンぬ
riviere sonnent clair
リヴィエール ソンヌ くれーる
(3)Dans les nuages du matin
だん れにゅあーじゅ デュまたん
des grues se croise le vol
でぐりゅー すくろワーず るぼる
dans le brouillard du soir
だんる ぶるいやーる デュそわーる
grenouilles menent grand bruit
ぐるぬいーゆ めのん ぐらんぶりゅい
chaque fois que j'y vais voir
しゃくほぁく じヴェヴォわーる
je ne sais que sangloter
じゅぬせく さんぐろて
au souvenir d'autres temps
おーすヴにーる どートゥるたん
最後に「荒城の月」の(いまいづこ)のメロディーが残ってしまうので、
au souvenir d'autres temps を繰り返して完唱する。
(2)の二行目は 4分音符2個にA la vieille と歌い、次も同じく4分音符2個にcapitale D'Asukaを工夫して入れて歌います。
この長歌(巻三の三二四)の意は次の通り
神の来臨する神なび山にたくさんの枝をさしのべて生い茂っている栂の木、その名のようにいよいよ次々と玉葛のように絶えることなく、ずっとこうしていつもいつも通いたいと思う明日香の古い都は、山が高く川が雄大である。春の日は山を眺めていたい。秋の夜は川の音が澄みきっている。朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に川鹿は鳴き騒いでいる。ああ見るたびに声を出して泣けてくる。栄えたいにしえのことを思うと。
赤人の本意は、自然は往時と変わらず雄大で躍動しているのに、そこに住んだ大宮人たちは露と化して今や存在しないという点にあるらしく、
「見るごとに音のみし泣かゆいにしへ(思へば)」の結びにそれが感じられる。しかし、全体はややあいまいで、近江荒都歌に見える迫力はない。
以上テキストは集英社文庫の(万葉集 訳注2 伊藤博著)